第六話

南間栄による、くだらない、しかし大きなキャッシュアウトを続けている間に

時代は大きくうねり始めていた。

経済は高度成長に突入し、モータリゼーションの波が押し寄せようとしている時に、

南間久吉が残した施設だけでは勝負にならない。

南間康は,なけなしの資金を捻り出した。

どこにまだ余力が残っていたのだろう。

しかし、人件費をはじめとするコストはまだ低いものだったし、

個人営業の業態の中で懸命に蓄積した資本を全て吐き出したのだろう。

南間康の経営者としての仕事の集大成になった二階建て20室の別館が完成した。

例に拠って南間栄が色々と口を出してきたが、

この時だけは南間康は、断固自分の思い通りに事を進めた。

この時代に、このような山奥の小さなホテルが

大手ゼネコンの清水建設で建築し、内装や調度品は全て三越が担当した。

南間康の金の使い方とはこういうものだった。

こういう使い方こそ投資が生きる。

南間栄と南間康の経営者としての差は歴然だった。

この建物は、その後皇太子時代の今上陛下や政財界、

また、文化人などの方々にもご愛用いただき、南間ホテルの看板の別館となった。

決して華美ではないが、どこかにバター臭さが漂う洒落た建物だった。

しかし、時代はもっと大きく変わっていった。

熱海や伊豆などに代表される、各地の温泉地は増築を繰り返し

成長を続ける企業がらみの団体客を吸収して言った。

旅行ブームが起こり、マスの時代が幕を開ける。

南間ホテルは根本的な戦略を構築しなければならなかったが、

相も変わらず前に進もうとしない南間栄は”今を楽しむこと”しか考えなかった。

こういう夫婦に子供はいない。

南間康の妹の子(南間久子)を養子にした夫婦は、その南間久子に婿をとった。

南間久子を後継者にすることは、生前の南間久吉の意志だったから。

南間栄も覆すことはできなかった。

それで、南間栄の遠縁の三郎を婿養子にしたわけだ。

この複雑さは、増々南間ホテルを混乱に落としていった。

南間三郎は学校卒業後サラリーマン生活を送っていた人だ。

この家族の中では、一番”善意の人”であろう。

南間三郎の父親は一代で財を成した事業家だった。

だから、「自分もできる」と思うほど世の中は甘くない。

他人の集まりの家族は皆が違う方向を視ていた。

結果として様々なチャンスを失い、時代の波に上手く乗ることができなかった。

こういう状態に一番危機感を持ったのは当然南間三郎だった。

「人生を掛けて婿養子になったのに・・

このままでは個人営業の旅館の親父で終わってしまう・・。」

南間三郎は、南間栄との軋轢を経ながら、何とか有限会社にした。

南間栄は社長に収まったが、やっていることは変わらなかった。

しかし、南間康はこういう流れに違和感を持っていた。

そして徐々に経営から離れていった。

その事がまた新しい悲劇を生む・・。

専務になった南間三郎は新しい設備投資を計画した。

時代の流れから言っても、それは当然の事だった。

しかしこの会社有限会社 南間ホテルに自己資金はない。

さらにもう1つ・・。

この頃から、地主である厚生省国立公園部(後の環境省自然保護局)の規制が強くなってきていたのだ。

手直しを繰り返さざる負えなかった計画は、大きな資金が必要になり、

南間ホテルは初めて銀行からの借入金で設備投資をした。

五階建て40室と、パブリック部門を併設した新館はそれなりの規模をもった。

資産や資本が極端に少ないバランスシートは、イビツなものだった。

しかし、曲がりなりにも南間三郎の強気な経営はそれなりの成果を挙げていた。

だが南間三郎は”足元を踏み固めることができない人”だった。

そこに南間三郎の落とし穴があった・・。