第五話

戦争が終わった後、南間ホテルは暫くは占領軍の将校達に利用されていた。

南間康にとっては、西洋人とはいえ、よく知っていたヨーロッパの人達とは全く異質の文化にかなり戸惑った。

そして占領されている屈辱を違った形で味わってもいた。

しかし米軍と知り合った事で、南間康は新しい時代の幕開けを知ることになる。

クライスラー等の米車や、GEの電気製品など、進駐軍の払い下げをいち早く受けていた。

戦後が落ち着いてきた頃、修学旅行が始まった。

日光は当然の事ながら、その候補地の1つになる。

楽な時代になってからのお客様達は、修学旅行との同宿を嫌ったが、

この頃は、新しい日本を担っていく小学生や中学生達をお客様達も快く接していくような時代だった。

貧しかった日本の修学旅行の宿賃は、現金ではなくお米だった。

その米を炊いて、生徒達を受け入れていたわけだ。

そしてこの修学旅行が、この後、南間ホテルにとって不思議な、そして大切なマーケットになっていく。

南間ホテルの立ち上がりは早かった。

時代の変化を知識や理屈ではなく、肌で感じていく南間康の先見性だ。

戦前の顧客も戻ってきていたし、この頃から南間ホテルは何故か知る人ぞ知るホテルになってきていた。

今のジェイティービー(JTB)の前身である(財)日本交通公社等も設立され、観光関連産業の土台が作られていった時代だ。

そして昭和30年代、高度成長時代に入った日本の宿泊産業も成長の時代に入った。

南間康は縦横に腕を振るった。

この時代が、南間ホテルにとって1番利益が出ていた時代だろう。

労働力は安く、原価も経費もコントロールしやすい時代だった。

南間康の経営は完全に成功していた。

そして、この時代にこそ資本を蓄積しなければならなかった時代だった。

しかし南間ホテルのピークアウトは、実につまらない原因による。

それは、南間栄の存在だった。

ホテルの経営には実力も見識もない人が、その利益を自分のために費やしだしたのだ。

業界の顔役にもなったし、地方政治にも手を出した。

南間栄はその地位を南間康の稼ぎ出した金で買った。

欧州の観光事情を視察するなどと嘯いて、レート360円の時代に、

まして敗戦国の日本の人間に、まだまだビザもよくおりない時代に湯水の様に散財した。

日光は寒いと言って、毎年冬から春にかけて葉山の旅館を借り切って過ごした。

女性関係など、枚挙にいとまがない。

何も生み出さない人に利益をつぎ込むほど愚かなことはない。

それでも南間栄は満足しなかった。

唐様で書く三代目と言うが、南間栄は養子であり、先代(久吉)や先々代(新十朗)の苦労も、志も理解できる人間ではなかった。

全ての悲劇は1人の人間から始まる。

中小企業としての南間ホテルは、その屋台骨を大きく損なう事になった。