第四話

太平洋戦争が始まって

当然のことながら南間ホテルも影響を受け、開店休業状態になっていた。

戦火が激しさを増し、本土決戦が噂にのぼりだす頃

突然、田母沢御用邸の近衛師団の儀仗隊長田中少佐から、南間ホテルに連絡が入った。

極秘裏に皇太子殿下(今上天皇、平成天皇陛下)の滞在を引き受けてくれないかという話だった。

当時の軍の一部には

もしも昭和天皇の御心に変化があった場合、皇太子殿下を奉じて徹底抗戦をしよう

という動きがあった。

皇太子殿下は学習院の御学友と共に田母沢に御疎開されていらしたが

皇太子殿下が田母沢御用邸にいらっしゃる事は、軍の中ではかなり知られていたことだった。

田中儀仗隊長の耳には様々な情報が入っていた。

田中少佐は

どのようなことがあっても皇太子殿下をお守りしなければならない

そして南間ホテルも、全てをかけて皇太子殿下と運命を共にさせて頂く事となった。

もしも何かあれば、南間栄も南間康も生きている事は許されないだろう。

南間久吉が建てた南間ホテルの別館は、皇太子殿下の御寝所と御学問所

そして侍従の方々や学習院の先生方をお迎えし

東宮仮御所となった。

南間ホテル本館には、御学友の方々と宮内庁の方々がお入りになり、厨房には大膳課が入られた。

湯元の他の旅館には、近衛連隊が分宿することになった。

様々なシュミレーションが考えられた。

南間栄は自警団を組織し、田中少佐に協力した。

そして

もしもの時は湯滝を爆破し、湯の湖の水を戦場ヶ原に流し、軍の侵入を阻止し、少しでも時間を稼ぎながら

皇太子殿下をしかるべき所にお移しする等々の策が練られた。

南間康は、ひたすら食料確保に奔走した。

これ以上の事は、ここでは書けない。

秘すべき事は、時間の流れと共に消えていく。

そしてプライバシー、それを開示してはならない。

それは、ホテルマンとしてのプライドだ。

そして運命の8月15日を迎えた。

広島に長崎に原子爆弾が投下され、敗戦が濃厚になる中で様々な動きがあった。

あらゆる場面を想定する中で、玉音放送が流れた。

皇太子殿下は南間ホテル別館の2階で、昭和天皇のお言葉を聞かれた。

その直後の皇太子殿下のお姿を、南間康は忘れない。

これから起こってくる全てのことを、皇太子殿下は一身に受け止められていた

と南間康は思った。

しかし事態は予断を許さなかった。

武装を解いていない軍隊が、まだまだ多かった。

実際、「皇太子を探せ」という命令も飛び交っていた。

終戦を受け入れられない人々は、昭和天皇の御心が決まった以上、

皇太子殿下を奉じて戦争を継続しようとしていた。

しかしどんな事があっても、昭和天皇の御心通り、新しい時代のためにも皇太子殿下の安全は確保されねばならない。

まさにアラートだった。

色々なことがあった。

結果として、10月に皇太子殿下が東京にお帰りになられるまで約半年の間、なんとか大過なくご滞在いただいたことは

南間ホテルの誇りだ。

その後平和が戻ってきてから、皇太子殿下は幾度となくおいで下さった。

又、各宮様方も御来館たまわった。

色々な終戦秘話が有る中で、これも歴史の1ページであることは間違いない。

昭和天皇が崩御されて平成が幕を開けた時、我が社「株式会社ヴィム」にメディアの取材が殺到した。

南間元は、当時自民党幹事長代理だった橋本龍太郎氏に相談した。

「その時お前は生まれていなかったのだろう。何も知りませんで押し通せ。」

と言われた。

そして平成も19年を迎えた。

その時のことは、いつか南間元とともに永遠に消えていくことだろう。