第二話

久吉のホテル事業は、次第に開花していった。

日光に訪れる人々の中には、湯の湖まで足を伸ばしてくれる人が増えていた。

門前町でも、伝統を育みつつあるウェスタンスタイルのホテルと、江戸時代まで遡る歴史をもつ旅館とが渾然一体となっていた。

久吉は、あくまでもホテルに拘った。

それは外国人に洗礼を受けた、西洋文明の力だろう。

久吉はそういったカルチャーに違和感は無かった。

むしろロジカルな考え方を学んでいった。

それでも日本人のお客のため日本間を中心とした建物を増築した。

それは、折角のお客様に対して、自分の考えを押し付けないためであり、そういった需要を逃さないためだった。

ヴェンチャーマインドを持つ経営者は、フレキシビリティも併せ持つ。

そして何よりも、志を貫き通す意思を持つ。

だから久吉のホテルは、それほどの力も無いのに何故かバター臭いホテルだった。

その時代の旅行というものは、現在の様な殆どの人々が、気楽に何がしかの旅行を楽しむというような時代ではない。

寧ろ限られた人達のみが、優雅に観光をしバカンスを楽しんだ時代だ。

その限られた人達というのは、社会的にも経済的にも力の有る人達だった。

そういう人達の知遇を得た久吉は、次々に増築をし、

又、湯滝という滝の滝つぼや、中禅寺湖畔の土地を借りる権利を取得し、

湯の湖上でのボート等の営業権を取得した。

これらの事を、上手くビジネスにまで仕上げるのが観光業というものだ。

しかし、そこまでの時間は久吉には残っていなかった。

それでも、東武鉄道の路線の延長に協力し、

何とか今のいろは坂の入り口まで区間を延長しようと努力したが、他の人達の反対で挫折した。

もし繋がっていれば、日光はまた違う展開を迎えていただろう。

シビライゼーションミーンズトランスポート(文明は輸送から)だ。

そういった経済を肌で知っている人だったのだろう。

そして久吉の最後の仕事は、彼の集大成となる新しい建物を建てることだった。

釘は一本も使っていない、良い材木を組み合わせ張り合わせた2階建て15室の木造の洋館だ。

戦争中に国の命令で日本間に改装したのだが、当時は全室ウェスタンスタイルの洋間だった。

そして廊下や階段にはその時代には手に入りにくかった真紅の絨毯を敷き詰めた。

これが何とも木造造りと調和し、一種独特の雰囲気を醸し出していた。

久吉の面目躍如だ。

この建物は、現在も栃木県益子町にあるが、当時と雰囲気は変わっている。

この建物こそが、後に東宮仮御所として今上陛下(平成天皇陛下・当時皇太子殿下)が半年間に渡って滞在し、終戦を迎えられた建物だ。

そして最も信頼する長女康に後を託して引退した。

しかし婿養子にした栄との間に子が出来なかったので、

次女にできた娘を自分の養子にし、宇都宮で育てそして逝った。

南間ホテル物語は、次回から南間康の物語に入る。